7月文化・歴史塾参加報告・・・八尾の魅力には歴史の謎がある
【講師と略歴】
講師:万葉かたかご研究者・八尾の歴史愛好家 小坂 武司 さん (富山市在住)
略歴:北日本放送株式会社の報道制作局で勤務後、ケーブルテレビ八尾の番組制作教育担当ディレク ターを務める。八尾に係わる制作番組は歴史番組「八尾養蚕・和紙の歴史」、「商人が作った町八尾のルーツ」、「歴史の寺聞名寺」、「本法寺」、「おわらは歌垣唄だった」「八尾万葉があった」 等
(講師の小坂武司さん)
【講座の印象】
7月4日に開催されました講座「八尾町建てとおわらの誕生」には、町建てとおわらの係わりに絞られた講義を期待されて参加された方も多かったのではないでしょうか。実際、話の中で演題に密着した部分は、従来のおわら起源譚にはない八尾町成立の歴史的な状況を考察した内容で、興味深く納得がいくものでした。特に、人々に井田川流域を「八尾(やつお)」と呼ばせた「いにしえの力」が、町建てにせよ、おわらの誕生にせよ、語られることのない影響を八尾町に及ぼしていたことを認識できたことは、今回の講座の特筆すべき成果であったと思います。
(ふらっと館会議室の講座の様子)
反面、講師の小坂さんは、演題に密着する内容に割く時間が短くなったことで参加者に恐縮されていました。けれども、私には、そうなることに必然があったと思われました。たとえ、おわらの誕生を主題にする講座ではあっても、万葉集にまで遡り、「八尾」という固有名詞の成立過程と固有名詞「八尾」が秘める言霊的な影響力を説明することなくして、「八尾町建て」は勿論、講座の主題である「おわらの誕生」にまつわる疑問も明らかにすることは出来ないと講師が考えておられたように感じたのです。その意味で今回の講座は歴史事象を率直・素直に考察された結果として十分に筋立った内容でした。恐らく、大半の参加者にとっても、八尾にまつわるこの上なく興味深い歴史の疑問に触れ、大きな驚きと新鮮な関心を抱く機会になったと思います。

(戦国の勢力分布が町建てに影響した説明図)
【概要と感想】
今回の講座にはキーワードが三つあったと理解しています。「大伴家持の八峯(やつお)」、「八尾町建て許可の謎」、「若者宿」です。これらを横糸に、そして商いで生きることを地盤としてきた八尾民衆の起業家であり文化を愛でる性格を縦糸として紡がれる日常生活から、ごく自然に、おわらが誕生する有様がまぶたに浮かんでくるのです。
さて、奈良時代、大伴家持が井田川(古名 サキタガワ 咲田川/崎田川)を遡上した際の想いを詠んだとされる歌が万葉集に収められています。天平勝宝二年三月二日(西暦750年4月12日)から同年四月三日にかけて詠まれたものです。その複数首に杉原や八尾を表すであろう「椙野」や「八峯(やつお)」なる言葉が使われています。私はもっと多くの人々にこの事実を知ってほしいと考えます。「八峯」という言葉は山が連なる土地を表す一般名詞であったのですが、家持が残した八尾への想いを受け継ぐことができた人々がいつしか井田川流域を「八尾」と名付けたのでしょう。ふるさとの地名「八尾」には、いにしえ万葉時代に謳われた「言葉の力」が秘められ、ふるさとへの誉れを脈々と育んできたのではなかろうかと想像して気持ちが熱くなるのは私だけでしょうか。

(万葉集に詠まれた八尾)
八尾町建てには、いくつもの謎があります。それがまた八尾の魅力を深めています。例えば、洪水で流された草高22石の八尾村とはいかなるものであったのか、八尾村がほぼ10倍の草高の桐山村を合併して八尾町を開く力はどこにあったのか、新たな町を開く場合藩から求められる新田開拓が強制されない異例の扱いを受けたのはなぜか、また謎の核心である町建ての許可状には、大身の奉行とはいえ、藩主や家老ではなく、一奉行津田勘兵衛の個人名だけが認められているのはどうしたことか等々です。

(井田川の河っぷちの八尾村を示す古絵図)

(桐山村の十分の一の広さの八尾村)
講師によるその理由の説明は首尾一貫しています。町建て以前の八尾が、飛騨などとの交易で当時既に相当の財力を持つ実質的な「町」として認知されており、町建てとは言うものの、その実相は追認措置にすぎなかったというものです。実際、幕府が開かれた直後、家康の元へ詣でた藩主前田利長が帰路わざわざ八尾に立ち寄った際に、自ら「八尾町」と述べており、その後、町建ての願い出を受けた時、藩主の意に従う追認で済んだからであると考えれば、謎のいくつかはすっきりします。実際、平安末期には、この地域で、国衙領であったと考えられる野積地域と都や飛騨との間に相当な交易があったということからも、納得できる推論だと思います。今後は、八尾村肝煎少兵衛が率いた八尾村の姿を多面的に研究することが面白いと強く感じました。権力中枢から離れて活躍した地方の民が実現しようとしたロマンであり、NHKの大河ドラマにできる内容かもしれません。
私は、おわらの誕生はあくまでも八尾町建てによる「剰余」だったと考えています。江戸時代前期に商いの町八尾が急速に発展した時、町社会が呼び込んだエネルギー過剰な若者達の風俗現象をその起源として捉えれば、他の盆踊り民謡にはない、おわらだけに強く感じるある種の「社会情念」を理解することができると、講座を聴いていて考えるようになりました。おわらの起源を、町建ての許可状に結びつけたのは、若者宿と呼ばれる町への労働力を供給するしくみに取り込んだ彼ら労働者を、日向の晴れ舞台に引き出すことで、そのエネルギーの過剰を安全に放出させる支配層の方便であったと推察します。若者宿が歌垣のような風俗からおわらを培う拠点になったと考えることはとても自然です。この仮説を、検証する力を私は持っていませんが、みなさんはどのように考えられますか。
(八尾の発展に携わった若者がおわらを誕生に深く関わったとの説明)
(山毛欅林 記)