立山曼陀羅と八尾の縁(えにし);発見塾レポート
7月19日(土)の19:30から東町の八尾ふらっと館で、当塾主催の「文化・歴史塾」がおこなわれました。立山博物館の主任学芸員であり文学博士の福江充氏(写真)をお招きして、「立山曼荼羅や布橋灌頂会(ぬのはしかんじょうえ)で名高い真言僧・龍淵と、八尾の宝憧寺(ほうどうじ;現・西町金毘羅堂)の縁をさぐる」と題して、講演していただきました。

当日は富山の総曲輪で八尾に関連した催し物が同時に開催されていたにもかかわらず、40名を超える人々が集まってくださり、なかなか盛況でした。
真言僧の龍淵と言っても、あまり馴染みがないかも知れませんが、この龍淵は江戸時代後期に活躍した傑僧で、立山曼荼羅の解釈や布橋灌頂会をおこなったことでも有名です。
そればかりか、何と八尾の宝憧寺(現・西町金毘羅堂)の建立にも力を尽くされ、八尾を終焉の地とされたことから、江戸時代後期の八尾に非常に縁が深い人物だと言えます。
八尾の歴史の再発見に耳目を傾ける
龍淵は安永元年(1772)に淡路島で生まれ、幼いころから頭脳明晰で、当時の学問・信仰の中心地である高野山に入り、瞬く間に頭角をあらわしました。
当時、高野山にある加賀藩ゆかりの天徳院が荒れていたため、その再興を目指して金沢へ向かい、加賀藩との結びつきができたようです。
龍淵の尽力が実って文政2年(1819)に天徳院に霊堂が落成されましたが、その後、どういう経緯があったのか、3年後の文政5年(1822)からは、富山の芦峅寺(あしくらじ)で定住するようになっています。
このころ、芦峅寺と岩峅寺の衆徒の間では、立山への参拝登山や温泉利用などの利権争いが生じており、龍淵は芦峅寺側に協力して、ことごとく芦峅寺側有利に解決したそうです。
また、立山曼荼羅の解釈や、布橋灌頂会などの宗教行事を整えたのも、このころの龍淵の大きな功績として今日に伝えられています。
龍淵が形を整えた布橋灌頂会
淡路島で生まれ、高野山→金沢→芦峅寺へと移り住んだ龍淵が、八尾に移住してきたのは文政12年(1829)のことで、宝憧寺の開寺に心血を注ぎ、天保2年(1831)には富山藩主から1000町歩もの寺領を拝領しています。
龍淵は天保8年(1837)に65歳で亡くなっていますが、彼の才知と行動力、そして、時局を見据えた的確な判断力は、他に類例を見出せないほどです。
以上のように、今回の講演では、龍淵の足跡をたどり、成し遂げた業績を学ぶことができ、当初からの目的であった江戸時代後期の八尾にスポットを当てることができたように感じています。
それにしても、なぜ龍淵が芦峅寺にかかわるようになったのか、また、なぜ龍淵が八尾で晩年を過ごすようになったのかと、謎が謎を呼ぶように感じられてなりません。
最後に、福江先生が「天保のころの八尾を調査すれば、龍淵の行動の背景が見えてくるのでは?」とおっしゃっておられましたが、このお言葉を八尾に住んでいる者への宿題として受け止め、今後さらに八尾の歴史を掘り下げていく必要があると実感させられました。
講座を聴かれていた宝憧寺の安寿さま(右)
福江先生、このたびは貴重なお話、まことにありがとうございました。
(追記)
講演がおこなわれた三日後の7月22日、当塾主催の「八尾史談講読会」がおこなわれました。
そこでは今回の講演のことで盛り上がり、ほぼ一時間半にわたって、龍淵のことや江戸時代の八尾のこと、当時に生きた町民の暮らしぶりなどについて話し合われました。 <文;桐谷 正、写真;森人>
八尾の歴史の再発見に耳目を傾ける
龍淵が形を整えた布橋灌頂会
講座を聴かれていた宝憧寺の安寿さま(右)
東の空まで紅く染まって・・・

4月4日撮影この頃が一番!

朝日を浴びて、透明な羽根を伸ばす。蜩の羽化
真夏の紅葉
実は小さいけれど味がとっても濃い山栗(柴栗ともいいます)









奥に見える顔は、確かに「漫画」のよう
肉団子を噛み噛みしている
頭を出した幼虫に、やわらかくした肉団子を与える

2匹いるのわかります?
?一週間前にホリホリ、モゾモゾ。セミだよね?

雨の雫で蒼紫が一層綺麗!


?


7月14日、16:30 虹が出ました。














